東京高等裁判所 昭和38年(う)179号 判決 1963年9月06日
控訴人 被告人 鴨野静郎
弁護人 我妻源二郎
検察官 高橋勝好
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人我妻源二郎作成名義の控訴趣意書記載の通りであるから、これを引用し、右につき当裁判所は次の如く判断する。
控訴趣意第一点について
次に弁護人は「本件各詐欺の事実につき原判決は被告人が被害者から受領した金員又は小切手の全額につき詐欺罪の成立を認めているが、被告人が権利者から委託を受けて請求した部分については、権利の実行として正当視さるべきであるからこの部分については詐欺罪の成立はなく、唯水増請求した部分についてのみ所謂差額詐欺として詐欺罪の成立を認むべきに拘らず、全額について犯罪の成立を認めたのは事実誤認乃至法令の適用を誤つた違法を犯したものである」と主張する。
よつて案ずるに、原判決の認定する本件各詐欺の犯罪事実は被告人は千葉県自転車振興会の相談役であつて、理事長の諮問に応ずべき職責を有し、本来理事者の如く振興会のため何等業者と取引契約を締結する等の権限を有するものではないが、同会の業務に明るいところから事実上同会の指導権を握り業務の広範囲に亘つて采配を振い、本件の何れの取引においても予め自己と取引関係のある業者等と、同会の備品或は必要品の買入れについての売買契約又は同会の建物、設備の改修に関する請負契約を締結し、該契約を権限ある理事長等をして承認せざるを得ない状態に作為して結局承認せしめ、自己が業者のため同会に対し売買乃至請負代金を請求して受領の上業者に交付する了解の下に、水増請求するの情を秘して業者から予め未完成の見積書用紙や代金請求書用紙或は領収書用紙を入手しておき、右用紙に適宜水増して金額を記入し虚偽の請求書等を作成し、これを振興会の経理課係員に提出して、同係員及び理事者等を欺罔し、係員から殆んどが真実の代金を著しく超過(超過額は少ないものでも真実の代金の二割に該当し数千円の水増額となつている)する現金又は小切手を交付せしめてこれを騙取したという事実であつて、これらの事実は原判決の挙示する対応証拠によつて明瞭である。
上記の如き事実関係の下においては、同振興会の経理課係員等は、若し被告人が水増請求する事実を了知したならば、通常請求金額の支払を拒否するものであるから、然らざる特別の事情を認め難い本件においては、被告人が正当に取立委任を受けた金額については権利を行使する意思であつたとしても、被告人が振興会から水増請求の欺罔手段を使用して現金又は小切手を受領した行為は、売主又は請負人の委任に基づく権利行使の手段として社会通念上許容される範囲を逸脱し、権利の濫用であつて、欺罔手段及び現金又は小切手の受領即ち所持の侵害を含む行為全体として違法性を帯びるものと認むべく、従つて被告人が取得した現金又は小切手の全額につき詐欺罪の成立を肯定するを正当とする。右現金又は小切手の騙取に伴う民法上の効果即ち権利者に対する弁済として有効であるか否かの如き問題は些かも右見解を左右することではなく、又騙取物件の可分、不可分の性質は詐欺罪成立の範囲に何等影響を及ぼす事柄ではない。故に原判決が本件各水増詐欺の事実において、被告人が取得した現金又は小切手の全部につき詐欺罪の成立を認めたのは正当であつて、これに反する見解に立脚し、水増部分以外については詐欺罪の成立を否定する弁護人の所論は採用し難く、所論引用の大正二年一二月二三日言渡の大正二年(れ)第一二一一号大審院刑事聯合部判例はその後の判例により自ら変更されたものと云うべく、本件につき今これを引用することは適切でない。叙上の如くであるから、原判決には何等所論の如き事実誤認乃至法令の適用を誤つた過誤あることなく、論旨第一点はすべて理由がない。
(その余の判決理由は省略する。)
(裁判長判事 尾後貫荘太郎 判事 鈴木良一 判事 飯守重任)
弁護人我妻源二郎の控訴趣意
第一点原判決は、事実の誤認あるか又は、法律の解釈適用を誤りたるのみならず、大審院刑事総聯合部判例及び之を到襲している其の後の判例の趣旨に違背した認定を為したる違法あるを以て、到底破毀を免れないものと信ずる。而して小切手詐欺の点については、経済社会の実状に即し、新たなる判例を出されんことを。
第一、原判決は、其の罪なるべき事実の項に於いて、第一、第三、第四、第八、第九、第十、第十二、第十三、第十四、第十五、第十六、第十七、第十八、第十九の通り、差額詐欺を認めずして、全額詐欺を判示認定して刑法第二百四十六条第一項を適用し、次いで弁護人我妻源二郎の主張に対する判断の部(三十三枚目表)に於いて『弁護人は受領金全額につき、起訴された詐欺事件について、水増した差額についてのみ詐欺罪が成立すると主張するが、前掲各証拠に依れば、被告人は理事長の諮問に応ずべき相談役であつて、本来理事者の如く、前記振興会のために、何等業者と取引契約を締結する権限を有するものではないが、しかし実際は同会の業務に明るいことから、実質的に其の指導権を握り、寧ろ積極的に、広範囲に亘つて采配を振い、その果ては、その地位を忘れて、本件いずれの取引関係においても当初から計画的に、かねて自己と取引関係のある業者等と売買、請負等の契約を締結し、これを権限ある理事者等をして事実上承認せさるを得ない状態に作為した上、業者に情を秘して、予め未完成の見積書用紙や、代金請求書用紙、或は領収証用紙を入手し置き、適宜水増数字を記入するか、記入させて虚偽の水増請求書等を作成して、殆どが基本請求金を著るしく超過する金円を反覆して詐取していることが認められるので、その目的手段態様いずれの観点からも、その各取引はそれぞれ全体として不法性があつたものと認めるのが相当である』と、極めて無理な判示をしたものである。
第二、乍併、(1) 『正当に受領すべきものある場合は超過部分についてのみ詐欺罪は成立する』との大審院聯合部判例(大正二年(れ)第一二一一号、同年一二、二三言渡)の通り刑法第二百四十六条に規定する詐欺の罪は、何等正当なる法律上原因なきに拘らず、欺罔手段を用いて人を錯誤に陥れ、因て以て不法に財産の交付を受け、又は財産上不法の利益を領得するに因りて成立するものなれば、法律上他人より財物の交付を受け又は財産上の利益を領得すべき正当の権利を有する者が其の権利を実行するに当り、欺罔手段を用いて財産の交付を受け又は財産上の利益を領得するも、詐欺罪を構成することなきは、各国の法制其の撥を一つにし、当院又旧刑法の解釈として、夙に認むる所の判例にして、此の判例は現行刑法の解釈に於いても亦之を是認すべきものとす。而して他人より財物の交付を受け又は財産上の利益を領得すべき正当なる権利を有する者が、之を実行するに当り、其の範囲を超越し、義務者をして正数以外の財産(金円)を交付せしめたる場合に於いても亦、同一の精神に従い、詐欺の罪は、犯人の領得したる財産(代金)又は利益の全部について行はれたるに非らずして、犯人が正当なる権利の範囲外に於いて領得したる財産(代金)又は利益の部分についてのみ成立するものと解せざるべからず、蓋し此の場合に於いては、犯人の領得したる財物(代金)中、其の権利に属する部分は、正当なる法律上の原因ありて、給付せられたるものなれば、此の部分については、給付行為は弁済として有効に成立し、犯人の有する権利は、之に因りて消滅するを以て、何等不当の利得あることなく、従つて仮令、欺罔の手段(水増請求書並に受領証)を用いて権利の目的を達したるものなりとするも、詐欺の罪を構成すべき理なく、反之、犯人が其の権利の範囲外に於いて領得したる部分は、即ち欺罔に因りて不当に利得したるものなれば、此の部分についてのみ詐欺の罪を認むるは、本罪の性質に適するものと謂はざるべからざるを以てなりと論断されているのである(大審院大正二年(れ)第一二一一号、同年一二月二三日刑一、二、三部聯合。刑録一九輯一五〇二頁、刑抄録五五巻六七〇五頁、判例体系刑法各則三五巻(1) 九八九頁参照)。
(2) 同趣旨 正当に領得し得べき軍需品運搬代と共に、欺罔手段に因り、権利なくして領得したる金額とを混合し、合計金六百円の全部につき被告等の詐欺罪を認めたるは、罪とならざる部分をも罪と認めたる違法あるものとす(大正十二年(上)十号、同年三月十五日海軍軍法会議判決、新聞二一四八号六頁、評論一二巻刑法二二九頁。判例体系同上九九二頁参照)。
(3) 他人より財物の交付を受ける正当な権利を有する者か、之を実行するに当り、欺罔手段を用いて義務を履行せしめ、財物の交付を受けても詐欺罪の成立するいわれはない。只其の範囲を超え、義務者をして正数以上の財物を交付させた場合は、財産の全部につき詐欺罪が成立するのではなくして、正当な権利の範囲外に於いて領得した財産(代金)についてのみ詐欺罪の成立と認めるのが正当である(昭和二十六年(う)第五一二号、同年六月二十二日大阪高刑七判、高裁刑集四巻五号五五五頁参照)。
(4) 同趣旨 正当に受領すべきものある場合は、超過部分についてのみ詐欺罪が成立することは言う迄もない。しかし乍ら、只名を其の実行に仮託し、これを手段として相手方を欺罔し、不法に財物を領得した場合、又は其の領得したる所以の原因が、正当に有する権利と、全然相異なる場合に於いては、詐欺罪は右領得した財物又は利益の全部につき、成立すべきものと解すべきことも当然である。従つて本件につき、仮令必要な経費として正当に支払はるべき性質のものが一部にあつたとしても、被告人は人夫賃請求書に実働していない者が、それぞれ稼働した如く、賃金請求権のない他人の氏名を冒用し、虚偽の記載を為し、之れが真実なる旨証明し、内容虚偽の公文書を作り、これを行使して賃金前渡吏員を欺罔し、同吏員をして原判示の如く現金を交付せしめたものであつて、領得した所以の原因が、正当に有する権利と全然相異なる場合に該当するから、被告人の所為は、それぞれ交付を受けた全金額につき、詐欺罪は成立するものである(昭和二十九年(う)第二二六号、同三十一年一月十二日、東高判、ジユーリスト一〇二号五六頁)。
(5) 不正に取得したパチンコ玉約一五〇個と、正当に取得した玉九三〇個とを、一緒にして、景品として煙草四〇個と引替えた場合は、不正取得した玉の対価として交付させた部分についてのみ、詐欺罪が成立する(昭和二九年(う)第一一一六号同三〇年七月一一日、東高刑九部判決、高裁刑特報二巻一三号、六九四頁。判例体系同上一〇一二頁参照)。
(6) 学校会計課長が、物品納入商人と結託し、契約数量全部の納入がないのに、全部納入した様に装つて、学校長を欺き、全部の代金を支払はせた場合は、学校に受入れていない部分の代金のみを騙取したものである(大審院昭和十年(れ)第一八八八号、同十一年四月九日刑二判、刑集一五巻四五一頁、判例体系同上一〇二八頁参照)。
以上の如く、従来の判例は、本件被告鴨野の詐欺被告事件の如き場合には何れも、差額詐欺を以て処断せられていたものである。
第三、今本件被告事件について、例を判示詐欺事実について検討するに
一、判示第四〇事実に依れば『被告人鴨野は社団法人千葉県自転車振興会(以下振興会と略称す)の相談役であつたが、昭和三五年三月頃、建築業鎗田操に、同振興会倉庫の床張替工事を一六、二二〇円で請負わせ、其の工事代金を支払うに際し、水増請求書によつて、金円を騙取せんことを企て、同月一〇日頃、前記振興会に於て、工事代金二〇、〇〇〇円(註、其の差額僅かに三、七八〇円に過ぎない。而も鎗田大工は現場を見て見積つた際、約二万円位かかると言つた事実がある)とした右鎗田操名義の虚偽の見積書を、前記振興会係員に手交し、同係員同会理事長竹渕万次等をして同見積書の金額が、正規の請負金額なりと誤信せしめ、よつて同月二十八日、同振興会経理係員より、右鎗田操への支払金として、現金二〇、〇〇〇円を交付せしめて、これを騙取し』と、判示し、二万円の金額詐欺と認定したのである。故に右は、前掲諸判例の趣旨の通り、其の差額金三、七八〇円の詐欺と認定しなかつたのは、当に違法にして、而かも該違法は、判決に影響を及ぼすこと明らかである。
二、今原判決が右事実に照応する証拠として、援用挙示するところの証拠に基いて、右事実の内容を検討すれば左の通りである。
鎗田操の検事調書(三七、一、一一)。
第二項乃至第四項は本件に関するもので、他は無関係である。右に依れば、振興会の倉庫(ガレージ)約四坪の床張りは、同人が見てもブカブカして危険であつたので、必要性のあつた事実は明らかである。故に判示の如く、不必要な処を修理したものでもないし、虚偽の修理でもないことは明らかである。又同人が鴨野に対し、其の修理代金は大体二万円近くかかる旨答へたところ、やつてくれと頼まれ、二日位で、其の仕事を完成した事実も明らかである。(二項)そして同人は、其の工事完成後の昭和三十五年三月二十六日頃、右工事代金請求書(請求金額一六、二二〇円)を書いて被告鴨野さんのところに持参、よろしくお願いしますと依頼したことも明白(二項)。従つて被告鴨野は右鎗田大工の正当な工事代金一万六千二百二十円の範囲内に於いては、右振興会から支払を受け、以て同人に渡す権利と義務を有した事実も亦明白である。而して其の二、三日後右鎗田大工は、現金で、右一万六千二百二十円を受領した事実も明らかである(三項)。
又該工事は振興会の理事者の禀議決済を受けている点から観ても、右振興会に右工事代金の支払義務あることも明白である。昭和三十四年度決裁書類綴り(用度係り)昭和三十五年三月十日鎗田操倉庫の床張替についての禀議書添付の見積書、及び経常経費伝票証憑綴昭和三十五年三月分中、振替伝票添付の鎗田操作成名義の領収証並に出金伝票(三、一七八号、三月二十八日附)添付の領収証並に請求書を示した。今見せられた書類中、三月十日附禀議書についている見積書と、三月二十八日附出金伝票についている二万円の領収証の二つは、私の使つていた用紙を渡したもので、これは金を受取つた後と思いますが、使いの者が来て、何も書かない領収証と見積書を貰いたいと言はれたので、私のところのゴム印を押してやり、領収証の方には、私の印をついた内容白紙のものを渡しました。従つて私は工事代金として一万六千二百二十円は受取つたが、二万円は受取つていないし、その見積書の内容記載は私が書いたものではありません』との供述記載に依り、結局被告鴨野は、鎗田大工に依頼され、振興会から右工事代金一万六千二百二十円を、事実上代理して、支払を受けるに際し、水増して金二万円と詐称し、該金円を現金にて受領して、其の中から鎗田大工に一万六千二百二十円を交付し、自らは残金三、七八〇円を領得したものである事実は、原判決挙示の右証拠に依つて明白である。故に該請求書も領収証も偽造のものでなく、只金額のみを水増した事案であるから、被告人鴨野の右所為は、判例に所謂只名を工事代金の支払に仮託し、之を手段として振興会を欺罔し、其の全額を不法に自己に領得した場合でないことは勿論(現実に支払済)被告人鴨野が右受領した所以の原因が、正当に有する鎗田大工の工事請負代金請求権と、全然相異なる場合ではないから(即ち原因関係は一致している。判示認定事実自体「鎗田操に対する支払金として交付せしめて」とある)全額詐欺と認定さるべきいわれはないのである。
三、次に判示第一四事実に就いて之を観るに、
(一) 『被告人鴨野は、昭和三十五年十二月上旬頃、エムプレスベツト販売株式会社より、サンブラインド及び附属品四組(価格合計二七、八四〇円)を、前記振興会のために購入し、その代金を支払うに際し、水増請求書に依つて金円を騙取せんことを企て、同年十二月二十六日頃、前記振興会に於いて、合計金三六、八〇〇円(差額八、九六〇円)とした同会社発行の虚偽の請求書を、前記振興会係員に手交し、同係員、同振興会理事長竹渕万次等をして、同請求書の金額が、正規の購入金額なりと誤信せしめ、よつて同月二十九日頃、同振興会経理課員より、同会所(エムプレス・ベツト)への支払金として、現金三六、八〇〇円を交付せしめて、これを騙取し』と全額詐欺を認定したものである。
(二) 乍然、右判示認定事実に照応する原判決挙示の証拠としては、一、押収に係る昭和三十五年度禀議書中、同年十二月二十九日付右会社宛日除取付代金支払についてと題する禀議書(同押号の七八)、昭和三十五年十二月分経常経費中同年十二月二十九日付出金伝票及び添付の請求書領収書(同押号の九〇)を挙示し居るに止まり、他に何等の証拠がない。而して右の証拠丈けでは、判示詐欺事実を認定することは不可能である。故に虚偽の証拠に依つて犯罪事実を認定した違法のあることは免れない。
(三) 然り而して、右禀議書に依つても、明らかな如く、右サンブラインド(日除け取付)が必要で、之を購入した事実は明白であるから、之を買受けた振興会に右代金の支払義務があり、之を販売したエムプレスベツト販売株式会社に販売代金の請求権があつたことは明白である。即ち正当なる法律上の原因があつたものである。
而して被告鴨野は、右エムプレスベツド会社に代り右代金を請求するに当り、只真実の代金二七、八四〇円を、三六、八〇〇円と水増して振興会から受取り、内金二七、八四〇円を右エムプレスベツド販売株式会社に支払いたるものなれば、これは其の弁済として効力を発し、振興会としても其の代金支払義務を免れたものであるから、此の正当の代金については不当の損害を蒙つてはいないのである。只残金八、九六〇円を、被告鴨野は、車代、世話料の積りで領得したに過ぎないものである。其の請求書及び領収証も偽造、変造のものではなく、エムプレス株式会社のそれを貰い受けて、金額丈けを水増して記入したものに過ぎないからである。従つて原判決の如く、全額詐欺と認定せられるべき筋合のものでないことは明白である。
四、次に判示第一〇の事実について之を観るに、
(一) 『昭和三十五年七月三十一日頃より昭和三十六年九月十五日頃までの間、合資会社篠田食料品店より土産物用佃煮折詰を前記振興会のために購入し、其の代金を支払うに際し、水増請求によつて金円を騙取せんことを企て、別紙一覧表記載の通り、夫々同会社名義の虚偽の請求書を、前記振興会係員に手交し、同係員、理事長竹渕万次等をして、同請求書の金額が、正規の全額なりと誤信せしめ(中略)現金二二、〇〇〇円を其の都度交付せしめて、これを騙取し』と全額詐欺を認定したものである。
(二) 乍然、原判決末尾添付一覧表に依り、明らかな如く、振興会が買受けた右佃煮の使途先は、夫々明瞭で同会の経理会議の際の手土産、来客手土産に使用されたものであるから、之を販売した篠田食料品店は振興会に対し、代金請求権あり、振興会は支払義務あることは明白である。故に正当なる法律上の原因ありと謂うべきである。
(三) 而して別紙一覧表(イ)一号に依れば、被告鴨野は、昭和三十五年七月三十一日頃、振興会の手土産品、佃煮小箱三〇個分(単価五〇〇円)一五、〇〇〇円を現金で受領し、内金一二、〇〇〇円を、篠田食料品店に、現実に支払い、其の差額三、〇〇〇円を自己に領得した事実は、判示自体に徴して明白なれば、前掲判例に依り、当に差額詐欺と認定せらるべきである。(ロ)同上三号の昭和三十六年四月二十八日の振興会の来客手土産分大箱七個分合計金七、〇〇〇円も前同様、篠田食料品店に対する支払代金として振興会から受取り、内金一、四〇〇円の差額のみを自己に領得し、其の余の金円は現実に右食料品店に対する品代金として支払を了したものなれば、右は振興会の弁済行為として有効に成立し、正規の代金五、六〇〇円也については、何等不当利得の問題あることなければ、之亦、差額一、四〇〇円の詐欺のみが成立するものと解すべきは理の当然である。
第四、小切手詐欺の判示事実について。
以上第三の一、二、三、四、の各場合は何れも、現金詐欺の場合であるが、同じく小切手で受領した場合に於いても、同様に解釈すべきものなることを強調し、且つ之を論証する。
一、前掲大審院刑事総聯合部破棄自判の判例(大正十二年十二月二十三日判決録第十九輯一五〇二頁)は、前記摘録の外に、更に進んで、左の如く判示している。
『他面に於いて、詐欺犯人の領得したる財物又は利益の一部分につき、犯罪の成立を認めるが為には、其の財物又は利益が法律上、可分なることを前提とするを以て、金銭、米、其の他種類、数量に依り、法律取引の目的となるものが、詐欺に依り授受せられたる場合に於いては、犯人の権利に属する部分と然らざる部分とを区別し、後者に属する部分のみ犯罪の成立を認めることを得るも、犯人の領得したる財物及び財産上の利益が法律上分割を許さざるものなる時は、犯人は其の全部につき不当の利得を為したるものとし、之をして其の全部に付、詐欺罪の責任を負はしめなければならぬ』と判示し、且つ『金銭は法律上可分なるを以て、三、〇〇〇円の内被告に於いて正当に受領すべき権利を有せる三〇〇円の交付は、法律上有効の給付なること論を俟たず、従つて此の部分については詐欺罪を構成すべき理なく、二、七〇〇円についてのみ、罪責を負はすべきものとす。然るに、原判決は三、〇〇〇円全部について詐欺罪を構成すると為したるは失当である』と。然り而して、該判例は本件の如く、物品の買入れ代金、又は請負わせた工事代金の支払手段として、小切手で振興会から、被告鴨野に手渡され、同人は之を直ちに支払銀行に振り込み、現金を受領し、其の中から正規の物品代金又は工事代金を現実に、販売店又は業者に支払を了し、其の差額のみを自己に領得した場合の、右の如き代金支払手段としての小切手が、法律可分なりや、不可分なりやに就いては何等言及していないのである。従つて欺る場合に於いての小切手については、現代の経済社会通念に照らして、目的論的に良識を以て、実情に即した法的判断を下さなければならないものである。
二、現代の経済社会通念に依れば、本件事案の如く、代金の支払手段として振出された小切手なるものは、現金と同一視されていることは論を俟たない。小切手発行者は何れも現金を銀行に予金して、現金支払の手数と煩雑を避ける為に、現金に代へて小切手を手渡し、現金を支払つたと同一の効果をもたらしめ、之を受領したる者亦現金と同一視して、之を銀行に預金するか又は銀行に呈示して即座に(一覧払)現金に代へ得るものであるから、約束手形や為替手形と同一視すべき性質のものではないのである。
故に代金の支払手段として振出された小切手は現金同様法律上可分なりと解すべきである。経済社会の進運に伴い電気すら財物と看做されているのである。若し然らざれば、一万円札の現金と、一万円の小切手とを受領したる場合、一万円札は法律上可分なれども、一万円の小切手は法律上不可分なりとの結論に導かれて、不合理なる結果を招来する。一万円札は不換紙幣で、而かも紙切れ一枚であり、之を細かに分割することは不可能である。一万円の小切手も同様細かに分割することは出来ないが、現代の経済社会に於いては右一万円の札と同様、同価値を有するものとして流用されているものであつて、右二者は取引上、同一のものと理解されている。故に之を区別する理由に乏しいのである。
三、又刑法上に於いては、手形理論にとらわれることなく、実質的に目的論的に観察すべきものである。前掲判例は、『金銭、米、其の他種類、数量に依り、法律取引の目的となるものが、詐欺に依り授受せられたる場合に於いては、犯人の権利に属する部分と、然らざる部分とを区別し、後者に属する部分のみ犯罪の成立を認めることが出来る』と判示しているが、本件被告鴨野が振興会に請求したる法律取引の目的物は、振興会が買受けた物品の代金又は工事請負代金其のものであり、之に水増して右代金等を請求したものに過ぎない事案である。従つて法律取引の目的は、小切手其のものでないことは明白である。之に対し、振興会は、右等代金の現金払の手段として同一額面の小切手を渡したに過ぎないのであるから、現金で支払つたと同一であり、被告鴨野も亦現金を受領したと同一なのである。故に斯る場合、法律取引の目的からして、小切手の場合は全額詐欺、現金の場合は、差額詐欺と区別するは、真に不合理極まる結論に到達する故、現金支払に代へた小切手を受領した場合にも法律上可分なりと解し、差額詐欺を認めるを相当と信ずるものである。之れが為には、高等裁判所に於いて、判示事実を『小切手に依り金幾何円を受領し、以て其の差額、幾何円を騙取したものである』と判示認定することが、却つて事案にマツチするものと思料する。若し之に反する解釈ありとせば、此の際改めなければならないことを強く主張し、且つ要望するものである。
四、今之を、原判決(罪となるべき事実)の判示第一事実に例えば、昭和三十四年八月三十一日頃、勉強堂が振興会に売つた双眼鏡三台の価格は、合計で金四万八千二百円であるが、勉強堂の請求書に水増金額を加算し七万九、〇〇〇円と記入し、之により額面金七万九、〇〇〇円也の小切手を勉強堂への支払金として交付せしめ、鴨野は該小切手を、支払呈示の為、宛名銀行である株式会社千葉銀行に呈示して現金の支払を受け、正規の代金を勉強堂に支払い、其の水増差額金三万八〇〇円は自己に領得したものである。(被告鴨野の三七、一、六附検事調書第二項参照)斯くの如く、小切手は、法律上、現金の支払手段に過ぎず、該小切手を支払会社の取引銀行に呈示して、現金が小切手と引換に支払はれて初めて実質上の給付、乃至受領関係が生ずるものなれば、之を実質的に観察し、鴨野が勉強堂に支払う双眼鏡三台の代金として勉強堂の請求書並に領収証に依り、受領した金円は、小切手たると現金たるとを問はず、法律上可分の財物なりと解するを相当と信ずるものである。故に本件に於いては(第一)に物品代金請求、工事代金請求という正当な権利関係があつたこと。
(第二)に、右物品代金、工事代金が振興会から受領した金円から支払はれ、法律上有効に弁済されている事実。(第三)に而かも此の代金支払及び受領行為は双方の何れからも取消された事実がない。(第四)に、鴨野の不当利得は、水増分のみであり、(第五)に振興会の不当損失は其の水増差額のみに止まるとの事由に依り、其の差額についてのみ詐欺罪を構成するものと断ずべきである。若し然らずとすれば吾人の常識又は一般経済社会通念に反した結果となるのみならず、又等しく物品代金の受領行為であり乍ら、小切手で受領すれば全額詐欺、現金で受領すれば差額詐欺となるが如き不合理なる結論を生ずるが故である。
故に斯る不合理なる結果を是正する為には、『被告鴨野は小切手に依る支払方法により、振興会から金七万九、〇〇〇円也を受領し、以て内金四万八、二〇〇円は正規の双眼鏡代金として勉強堂に支払い、其の差額金三万八〇〇円也を騙取したものである』と判示されることも一方法たるを失はないと信ずる。
以上の次第であるに不拘、原判決は、深く思いを茲に致したる事跡なきは勿論、従来の判例にも相反する独自の見解に基き、被告鴨野の本件詐欺事案全部につき、漫然と、全額詐欺を判示認定したものなれば、冒頭掲記の違法あるに帰するものである。
(その余の控訴趣意は省略する。)